存在しない完全

ただの雑記ブログ

苦しい思考

平日は毎日ブログを更新するつもりだったのに、木、金、月と3日間もサボってしまった。土曜日から一週間の盆休みに入っている。休みを目前にして気が緩んでいたのかもしれない。習慣を身に着けることはやはり難しい。

 

書くことが思いつかないわけではないのだ。日々の代わり映えしないルーティンをこなす中でも、考えを巡らせることはたくさんある。例えばふと、幸せとは何かということを考え出すとあーでもないこーでもないとたくさんと自分が好き勝手に意見を述べる。そうやって寝てるんだか起きてるんだかわからないような顔をして、思考の海に潜りこんでいく。

 

 

それをつらつらと書けばいいじゃないか、思考の整理とアウトプットになって面白いんじゃないのか、そう思ってブログを始めたのだが、すこしやってみて自分のある問題に気が付いた。

 

着地の仕方がわからないのだ。結論の出し方がわからない。白か黒かをはっきりさせたいわけじゃない。この世界はそんなふうにはっきりしているもののほうが少ない。じゃあ答えを出さなくていいじゃない、そう思うのだけれど結局自分が何を言いたいのかがわからない。どうやって文章を締めくくればいいのかがわからなくなってくる。勢いで最初のほうは書いたはいいが、終わりへのもって行き方がわからなくて息詰まる。苦しい。書きたくない。

 

そう思ってしまうから一か月前に書いていたころよりも文章量がこの頃は減った。過去のブログの文字数と比較したわけではないけれどわかる。書いている自分がよくわかっている。苦しみたくないから、早く抜け出したいと感じているから無理やりにでも終わらせようとする。

 

どうすれば苦しまずに終わりへ持っていくことができるのか考えた。文章が書きたいのに、書きたくない。一体どうすればいいのか。また苦しんで、考えた。

 

わたしの中で出てきた結論は、苦しまないようにすることが間違いだということ、である。今まで頭の中にポンポンと浮かんできたことを書いてきた。つまり、浅い思考だ。私は考えてなどいなかった。うんうん頭を捻って考えることを放棄しようとしていた。

 

わたしは習慣として筋トレをする。楽な回数、量をやっても効果はない。あーキッツいなあと思うくらいやっていかないと意味がない。負荷をかけないと効果はないのだ。これと同じで、書く中で行き詰まり、頭をうんうん捻って考えることは脳に負荷をかけることになるのではないかと考えた。脳のトレーニングをしているのだと。

 

だとしたら逃げちゃだめだ。苦しさとは向き合って戦っていかないといけない。じゃないと私のレベルは一向に上がらない。ポケモンのゲームをしたことがあるだろうか。最初の街の草むらで余裕で倒せそうなポケモンしか相手にしていない。今の自分はそんな状態だと思っている。

 

逃げるな、戦え。思考を放棄するな。時間がかかってもいい。考えて考えて書いた結果、それほどいい文章が書けなくたって、いい。そのプロセスこそが大事だ。だから逃げるな。とことんまで苦しめ。続けていけば、いつの間にか私のレベルは上がっているはずだ。

 

もし成長していなかったら?

その時は、そのとき考えるよ。

 

 

夏の始まりに

8月に入り、はや一週間が経とうとしている。
夏が開幕した。

私の住む地域では7月から8月へカレンダーが切り替わるのと同時に、梅雨から夏へ季節のバトンは渡された。

うだるような暑さとはまさにこの事だろう。朝から太陽は情け容赦なく私を照りつけ、体力とやる気をみるみるうちに奪っていく。雨が続いていたころ、それはそれでやる気が削がれるのであるが。

1週間前にはあれほど待ち詫びていたこの青空が、光が、もうすでにうっとうしく感じられる。曇り空に憂鬱な想いを浮かべていたあの時間は、すでに遠く過ぎ去ってしまい、なにを考えていたのかすらもう思い出せない。

「夏」という季節を表現するにはどんな言葉が似合うとみんなは考えるのだろうか。私の勝手なイメージでは情熱である。ちなみに冬は切なさである。世間一般的なイメージはこれとそう遠く離れてはいないのではないだろうか。大体、これと似たようなことを考えると思う。

おそらくであるが、汗のせいなのである。8月と12月では同じ運動量、活動量でも汗をかく量は半端じゃなく違う。私は外仕事をしているので今もありありと感じられる。1日が終わったあとのインナーシャツは絞れるほど水分を含んでいる。水やスポーツドリンクを浴びるように飲んでいないとやってけない。

汗水垂らして~などといわれるように、汗イコール頑張っている、というイメージが沸きやすいのである。たいして動いていなくても、外にいるだけで汗びっしょりになるのだから、「あー私頑張った!」という気持ちになりやすい。「頑張りました感」が出やすいし自分でも感じられやすいのだ。

学生時代、運動部に入っていた人は特に夏=頑張った、情熱、みたいな想いを抱いているひとは多いだろう。暑いだけで、体力は消耗する。そんななかで、自分を何とかどうにか奮い立たせて頑張って走るのだからあの夏はきつかった、ホントに頑張った、と語る人も少なくはない。

効率はまあよくない。気温はクソ高いのに走り込みだ!なんてやっているのはただ無駄に体力を減らしているとしか思えない。(まあある程度は暑さになれてないと試合などで全く走れなくなるので仕方ない部分もあるのだが)

話が脱線してしまったような気がする。とにかく夏は私にとってはその内容はどうであれ、気持ち的には「頑張ってきた」季節なのだ。涼しい部屋の中から、車のなかから見上げる青空は、空はこんなに青かったっけ、と思うくらい眩しくて、美しい。

それと同時に、不安にもなるのだ。
あの夏は、頑張った。頑張れた。必死でやった。
いつだって必死で生きてきたつもりだ。
でもあの青は、お前はやれているのか?そんなもんなのか?そう語りかけてきて、私は飲み込まれてしまいそうになる。

来年の夏は1年前の夏を誇れるだろうか。
ああ、誇れるだろうか、じゃないんだよね。これが私の悪い癖だ。だから今まで、うまく行かない。
するんだよ、私の手で、私の体で。

夏は始まったばかりだ。まってろ。

永遠とは

永遠をください

永遠が欲しい


音楽を聴いているとそんな歌詞を耳にすることがある。ラブソングなどの切なさを感じさせる曲でよく聞かれるだろうか。

「永遠」とはいったいなんなのであろうか。

永く続いていつまでも終わらないこと。私はそのように認識している。きっと、曲に使われる永遠とは、恋人との大切な時間が、今感じているかけがえのない時が、いつまでも続いて欲しい。この時間が終わってほしくない。そういった願いをこめて「永遠」という言葉が使われているのだろう。


しかし性格がねじりにねじまがった私はひねくれた考え方をしてしまう。本当に永遠が欲しいのか?

人は生きている限りいいこと、楽しいことばかりではない。大変なことややりたくないこと、悲しいことがあるこの人生を生き抜く中で、一瞬の煌めくような時間は輝きを放ち、人はより喜びを感じることができる。

その時間が永遠になるということはそこに取り残されること。仮に永遠を手に入れたとして、喜びだけの中で生きることができるようになったとする。するとそれが当たり前になってしまう。つまり、喜びは喜びではなくなってしまうのだ。

人はいつか死ぬ。人生には必ず終わりが存在する。だから人の生というのは儚くも美しい。終わりが存在しないものは、美しくないのだ。

ハイボールにはウィルキンソン

晩酌は大抵ハイボールか糖質オフの発泡酒を飲むのですが、一番好きなのはハイボールなのです。まあ焼酎以外は酒ならなんでも好きなわたしですが、よく飲むのはハイボールです。

お金があるわけではないので、高いウイスキーは買えません。2000円以下で抑えたい。大抵、私はバレンタイン ファイネストを買います。

ブラックニッカディープブレンド、というのをよくおすすめされるので近いうち、試してみたいと思います。

(ホントは日本産のいいやつ飲んでみたい。高いやつ。ボトルで欲しい。白州とか余市とか響とか。)


で、ハイボールはご存知のとおりウイスキー+炭酸水のお酒。炭酸水なんてなんでもいいか、と思ってドラッグストアの安いよく分からないブランドを買っていたのですが、「いや、ハイボールは炭酸水にこだわるべき!」とネットで調べたりするとよく言われるのです。

そして、みんながよく言うのがウィルキンソン。結局これだと。

コンビニにあるイメージだったので1本100円くらいで高いんじゃないかと勝手に思っていたのですが、スーパーやドラッグストアで買うとそれほどでもないんですね。(60~70円くらいかな)

なので今日はウィルキンソンハイボールを作って飲みました。まあ対して変わらないだろうと思いながら。

ビビりました。いままで私はなにを飲んでいたのだろう。痺れる強炭酸。我こそがハイボールだと身体の中で叫んでいます。美味しすぎる。

いつもは500ml炭酸水を1日で半分くらい使うかんじだったのですが、今日は一本使いきりました。

今まで見てみぬ振りをしてごめん、ウィルキンソン。あんた最高だよ。

もうすぐお盆休み。ウィルキンソンにはたくさんお世話になりそうです。

かつて天才だった俺たちへ

いきなりですが私はcreepy nutsが好きなんです。

creepy nutsというのはラッパーR指定とDJ松永の二人組からなるhiphopユニット。

まあ、彼らの説明はぬきにして、話したいのは8月に発売されるニューアルバム「かつて天才だった俺たちへ」に収録されているタイトルと同名の曲。

まだ曲はフルで解禁されていません。

帝京平成大学のcmに起用されているようで、30秒間だけ、サビの部分?を聞くことができます。youtubeで調べてみてください。

もともとcreepy nutsの曲はよく聞いていて、好き曲はたくさんあるのですが、この曲は一回だけ、ほんの少し聞いただけで、私のなかでトップクラスで好きな曲になる!と確信しました。


かつて天才だった俺達へ
神童だった貴方へ


昔の自分は特別だと思っていた、なんでもできるような気がしていた、可能性は無限大だった、なのに、いまは…
大人になって何者にもなれず、不安や迷いもたくさんで、うまく行かないことばかりで、無敵に感じていた昔の自分が懐かしい、と現実と理想のギャップに苦しみ、感傷に浸る曲なのかと思いました。
ですが、

なんにだってなれたanother way
まだ諦めちゃいない


諦めてなんて、ない。まだ終わってない。
今の自分を卑下するのではなく、あの頃の、最強で、最高で、天才だった自分を思いだそう。まだやれる、まだ終わっちゃいない。今の自分を鼓舞する曲なのです。(と、私は解釈しました。)


いまだかつて ないほど入り組んだway
悩めるだけ悩め 時がきたらかませ


ああ、もう最高だ。いまの自分にぴったりで、ほんとに力をくれる曲です。ちょっとしか聴いてないのに。

そりゃあ道は険しくて、思い悩むことばかりだけど、そのときまで力をつけて、ぶちかましてやる。

今の自分の現状と重なるところが多すぎて、心を打たれました。


ありがとうcreepynuts。
まだ、なんにだってなれる。諦めちゃいない。
かつてじゃない、私は天才で、神童だ。
どうか、みていて欲しい。
いつか、かましてやる。

アルバム絶対買います。

やりたいこと

自分のやりたいこと、ってなんだろう。
いつも考える。別に職業に限った話ではない。

私は人生においてなにを成し遂げたいのか?
なにがどうなれば幸せなのか?

いつまでも見つからない。
きっと、一生見つかることはない。

別に金持ちになってセレブのような生活をしたい訳じゃない。

でも、平凡に生きていくのも、なんか嫌だ。

文句が多い。

きっと、生きる意味が欲しいのだ。

私だけが、できること。

私にしかできないこと。

それがほしくて、みんなから求められたくて。

代わりはいくらでもいるようなことをするのは、苦しい。

必要とされたい。

あなたがいて、よかった。
そう、言われたい。

そんな日は、いつかくるのだろうか。

らくがき

あー書くことがない。いや、正確にいうのなら書きたい話題なんていくらでもあるのだけれど、本腰据えて思考を巡らせて文章書き上げようという気力がない。今までもたいした文章を書けているわけでもないのだけれど。


今日はまあ、なんか疲れた。別に嫌なことがあったとか特別忙しかった訳ではない。なんとなく、なんとなく、疲れた。やる気があまりない。早くごろごろしたい。そういう日は誰だってあるじゃない?人間だもの。ね?


だけれどそんな日でも、自分の決めたことをきちんとやりとげることができる人が成功するんだろうね。

調子がいい日でも疲れている日でも用事が入ってる日でも自分の決めた量の勉強を確実にこなす、これが勉強の習慣づけのコツだ!ってアメトーク勉強芸人?でも誰かが言ってたよ。


自分の決めたことをを毎日確実にやりとおす、これが簡単に見えてなかなかできないんだよなぁ。今月の目標!とかを考えても無謀な設定をしてしまったりして達成できず、落ち込む。いい加減になる。負のループ。

例えば今まで運動とかしてこなかったけれども、痩せたいと思ってる人が明日から毎日10km走る!お菓子禁止!炭水化物少なめ!筋トレもやる!とかいう目標を立ててもまあーーーーー成功しない。
絶対。それがほんとにできるんならどんどん体重は減るだろうけど無理だよ。意思の力というのは泥団子なみに脆いし、人間は楽な方へ楽な方へ流れやすくて現状維持を好むものである。あなたも私もそんなにすぐに変わることはできないのである。人間はまあなんと弱くて怠惰な生き物なんだ。


だから言われるベイビーステップ。絶対に毎日できることから始めて、もう物足りなすぎる、と思ったら負荷を徐々にあげていく、といったところだろうか。ダイエットなら、まず軽く散歩から。それすらできないなら、着替えて靴を履いて、外に出るだけでもいい。そんなことがよく言われる。


そんなんじゃダイエットにならないじゃないか!そう叫びたくなる気持ちはわかる。うん。ならないよ。着替えて外でるだけで痩せるわけがないじゃないか。

人間はすぐには変われない。変わらない。誰であっても。でも少しずつなら変わっていける。無謀な目標を立てたデブは1ヶ月後には明日からやろうとポテチを食ってるだろう。着替えから始めたデブは3kmくらいなら音楽を聴きながらでも歩いているかもしれない。

そりゃあ、毎日走ってるアスリートのような人にはすぐに追い付けないだろう。比べる対象が間違っている。比べるのは過去の自分だ。3km毎日歩けるようになった。わずかだ。わずかだけれど、確実に、前に進んでいる。比べるのは、過去の自分だ。


自分は文章で食っていきたいと考えた。いきなり長編小説を書いたり、ライターとして稼ぐのは無理だと思ったので、とりあえず平日は毎日ブログでただ思ったことを日記のように書こうと決めた。楽ではないが、まあ何とかこなせるレベルである。

もっと上にいる人には鼻で笑われるかもしれない、関係ないひとにバカにされるかもしれない、誤字も多くて何が言いたいのかわからないカスみたいな文章で、こんなので食っていけるようになれるのかよってツッコミたくなるけど、でも、でも、

私は書いている。

一ヶ月前の私は、書いてない。

その差は歴然である。願うだけでは叶わない。ほんのわずかだけれど、前には進んでいる。だから自信をもて、私。

描いた未来を、この目に、見せてくれ。