存在しない完全

ただの雑記ブログ

朝の曲が嫌いで

2020年、令和に突入してはや1年以上が経過したこの時代。朝起きるアラームはアナログの目覚まし時計ではなく、スマホのアラームアプリを使っている人が多いのではないか。特に若い世代の人は。寝る直前までスマホで何らかを眺め、充電コネクタをさして枕の横に置いて寝る。そして、朝はスマホから鳴り響くアラームで重いからだをたたき起こす。20代の9割の睡眠状況はこんな感じであろう。いや、統計をとったわけではないが。


そして、そんな生活をしている人のほとんどが経験しているであろうこと、アラームの音楽を嫌いになる、ということだ。大好きなアーティストの曲をアラームに設定したとしよう。毎日毎日、学校や仕事の日の朝に聞くことになる。もちろん聞くだけならその曲が好きなのだから悪いことではない。「好きな曲ならスッキリ起きられるよね!」そんなことを考えて好みの曲をアラームにしたこと、あるでしょう。

まあ、起きれない。それどころか徐々にその曲が嫌いになってくる。学校や仕事は、基本的には「しなければならないこと」である。そして、それは時間が強制されていて、朝早くから準備して、時間どうりに登校、出社しなければならない。いうまでもなく、朝は誰だってずっと寝ていたい。満足するまで。それを自らが設定したアラームが許さない。

アラームの曲は「やりたくないことをやらせる」音楽になってしまうのだ。なので、この曲を聞くと憂鬱になる、と頭に刷り込まれてしまう。

その経験をした人はだいたいスマホかアプリに内蔵されている電子音を使う。逆もしかり。電子音をアラーム設定している人は、好きな曲をアラームにして嫌になった経験がある。はずだ。たぶん。

私もその過程を通ってきたので、アラームに曲は設定していない。ビービー規則的に騒ぐ音にしている。それでも、朝聞く音楽をアラーム以外で嫌いになってしまう。テレビだ。

朝つけるニュース番組は決まっていると言う人がほとんどだろう。そして、その番組にはテーマソングがアーティストのタイアップとして決められている。私の見ている番組では一年間。番組のなかで、天気予報など、ことあるごとにその曲のサビが流れてくる。ああ、やめてくれ。仕事にいかないといけない。

特に覚えているのは2年前くらいだったか、女性アーティストの曲で、頑張れ、頑張れと連呼するような曲がテーマソングだったときだ。重いまぶたとからだをなけなしの気合いで言うことを聞かせ、どうにかこうにか準備しているときに頑張れ頑張れと言われる苦しさったらない。もはや頑張りたくない。


ただ、一概に朝聞く音楽全てが悪いと言いたい訳じゃない。ふとyoutubeやテレビやラジオで流れていた曲が、自分があの頃の、朝に聞いていた曲だったとき。その時の自分が、思い起こされる。あのときは、こんなことしてたなぁ、あの歳は、あんなことで悩んでたなぁ、こんなことが楽しかったなぁ。毎朝聞いていた音楽が、その頃の思い出とリンクして、感傷に浸る。

だからといって今を記憶に刻むためにあえて朝決まった音楽を聞こうとは思わない。思わないのだが、つい耳に入ってしまうものだ。だから数年後、この曲を聞いたときに、あの頃に大変だったなぁ、頑張ったなぁって思えるとちょっとだけ嬉しいかも知れない。

あーー、やっぱりでも、髭男の「HELLO」、うるせぇなぁ。(笑)また明日もこの曲聞いて、仕事に行かないといけない。

はろ~ さんびゃーく ろくじゅーど

謙虚が私を苦しめる

とある人、の家族からお願いされてある手伝いをした。その人の用事を手伝ってほしいと。別に報酬が出るわけでもないけど用事があるわけでもない。断る理由もないしその人にはお世話になっているのでまあ当然のように手伝った。人の役に立てることはどちらかといえば好きな方である。自分が求めれられているなら、喜んで動こう。

作業当日、仕事のためそのとある人は一緒にいなかった。その人の家族と、私が作業をした。まあ、これが大変だった。天気が悪く、湿度が高い。汗びっしょりになったが無事終えた。

次の日、ばったりとその人に会う。
「おいっすー」
昨日は私があなたのために頑張ったんだぜー、と言う想いを隠しながら軽く挨拶。
「こんにちはー」
「…………」

わたしはちょうど帰るところだったのでそのまま車に乗り込む。大雨がフロントガラスを叩くなか、信号を待っていた。コンビニに寄ってコーヒーでも飲んで帰ろうかな。そんなことを考えていたとき。

ん?あれ?あれれ?
私が昨日あの人のための作業をしたんだよね?
さっき出会ったよね?
なにも、言われなかった?

ふと数分前のことを思い出す。あれは紛れもなく本人だった。見間違えだった訳ではない。私ともう一人はあの人のために、昨日しんどい思いをしたよね?



一言くらい、あってもいいんじゃない?



普通なら、そう思うのだろうか。私も少しだけ、ほんのちょっとだけ、そう思った。そして、そう考えてしまう自分が嫌になる。もしかしたら怒る人もいるのだろうか。私は怒ることがない。怒らないというより、怒るような出来事がないし、怒りかたがわからない。そして怒っている人を見るのが嫌いだから、自分は怒る、イライラを態度に出す、怒鳴る、ことをしないと誓っている。

だから頭に浮かんだ考えを消し去る。そもそも私が手伝ったことを知らないのかもしれないなぁ。それか私はすごく話しかけづらい人だと思われているのかなぁ。私のことがあの人はとても嫌いなのかも知れない。直接頼まれた訳じゃないんだから、「お前になんか頼んでないだろ!」とか逆ギレされたらもう。私のプレパラートより薄くて割れやすいハートは木っ端微塵だ。私が頼まれて、私が自分の意思で承諾して、自分で動いた。お礼を言われなくて怒るくらいなら最初からやらなければいい。見返りを求めて行動したわけじゃないんだから、まあいいじゃないか。善意とは、そういうことじゃないの?

感謝されたいなんて、傲慢だ。

だから私は本当になにも思ってない。なんだあいつ!といらいらしているわけでもないし、常識が
ないんだなぁ、とあきれているわけでもない。本当に私は私のことをなにもない人間だと思っているから、少しでも役に立てたのなら、嬉しい。


ただ、いいことをしたはずなのに、一言もらえない理由は自分の中にあるのだと、何か自分に落ち度があるのだと考えてしまって、結果落ち込んでしまうのはちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、悲しくて苦しいよ。


でもやっぱり適当でいいから、「ありがとー」って言ってほしかったな。自分は誰にも必要されてないのかなって思ってしまうよ。ごめんなさい。

ホットサンドメーカー

わたしはtwitterが大好きである。そりゃあもう暇さえあればtwitterを開く。私がスマホを眺めている時間のうち、90%以上はtwitter閲覧が占めているだろう。面白い、興味深いツイートが流れてきたら知らない人でも片っぱしからフォローするから、わたしのフォロワーは200人程度なのにフォロー数は1000を越える。そんなもんだからタイムラインは少しの時間放置しただけでかなりスクロールしないと全てを網羅できない。その中の自分にグッとくるツイートや有用な情報が紛れているんだからやめられない。

まさしく中毒である。スマホ依存というよりtwitter依存だ。しかもアカウントは全部で5個もある。全くだ。救いようがない。

さて、話が変わるようで変わらないのだが、ホットサンドメーカーでいろいろな調理をする動画をtwitterでみたことはないだろうか。キャンプ用のガスコンロ?のようなものを使い、ホットサンドメーカーを火にかけて調理する。酒のつまみからスイーツまで。

フォローしていないのにその動画がツイートされる度に「○○さんがいいねしました」と流れてくるので嫌でも目にはいる。いいねとリツイートは毎回うん万人を越え(たぶん)、毎度毎度バズを引き起こしている。

まあーーうまそうなものを毎回作りやがる。しかもカロリーが高そうなジャンキーなものを。しかも動画の見せ方もうまい。勢いがある。
まず今回の材料全てをドン!
そして火にかける食材を一つづつバン!バン!zippoライターで火をガチャン!
焼けたらゆっくり開いてジャーン!
トッピングして完成!
なんでもうまそうに作るのでみたことない人はみて欲しい。「ホットサンドメーカー」でtwitter検索をかければすぐに出ると思う。

で、今日みたツイート。メロンパンとスーパーカップチョコチップ味。あー今日はスイーツなのねなるほど。そして点火。おもむろに投入されるひとかたまりのバター。おいおい、それは反則だろう。カロリー爆上がり。危険な匂いがする。潰され、焼き上がるメロンパンが4つに切り分けられる。食べなくてもわかる。外はサクサク中はふわふわってやつだ。美味しいことははじめから決まっている。上にのせられるアイス。熱が柔らかく溶かす。完成。

と思いきやどこからともなく現れるジャックダニエルのビン。おい、おいおいおいそれは、

それはもう犯罪でしょ。

ウイスキー好きのわたしの心を刺す。
そして並々とカップに注がれるドリンク。カルーア

見ているだけで幸せだった。幸福感と罪悪感。悪いことをしているのに最高の気分。

まあ自分で道具を買って、作ってやろうとは思わないのだが。(笑)

欲しいもの

ずっと自分のことを特別だと思っていた。小さなころからみんなが気がつかないような小さなことにも気付けた。物覚えがいいね、要領がいいねと言われて育った。先生や親の顔色を伺って起こられないように、先回りして悪を潰し、自分に求められることは全てやった。学校は好きだったし、勉強も教科によるが好きだった。生徒会や体育祭のリーダーや部活のキャプテンなど様々な役割をこなしてきた。自分からやろうと思ったわけではなく、友達が、先生が私にやって欲しいと言うからやった。他の人がいやいややるくらいなら私がぜんぶやった方がうまく行く自信はあったし、目立つのは嫌いじゃない。人前に立つのだって苦ではなかった。


あいつすごいなって、みんなに思われたい。誰しもきっとそんな感情は持っている。不得意なこともなかったから、回りに求められることは全てやった。その役割をうまくこなせばすごいなって思ってもらえるし、何より頼られている感じがして嬉しかった。


やろうと思えばなんでもできる。ちゃんと真面目に取り組めば、私にできないことなんて存在しない。学生生活の中でそんな自尊心はすくすくと育っていった。


悪いことではない。それが根拠のない自信であってたとしても。私は特別なんだ。他のとは頭の構造が違っていて、同じ人間でも私は特別な感性、思考力、行動力があるんだ。なんだってできる。大人になればなんかでかいことをやってやろう。


そう、錯覚していた。まさしく中二病。社会をなめていた。金と見栄と虚言が渦巻く社会に放り出される。私は凡人だった。凡人どころか、欠陥品だった。

仕事でも、私生活でも、当たり前のことができない。みんなはなに食わぬ顔をしてひょうひょうと生きているように見えるのに。何もできない。気づいた。私は人間ではなかった。

言われたことはなんでもこなす。文句や口答えなどしない。要求されたものは完璧を追求する。なんでもこなすからなんでもできる。注意されたことはすぐ修正する。いいことだと思っていたのに。指示を受けなければ、何もできない。

私には意思がなかった。こうしたい、ああしよう、そんな思いが私にはなかった。言われればなんでもやるが、言われなければなにもしない。なにをしていいかわからない。どうすればいいのか、喜んでくれるのか、聞くことさえ怖くてできない。全て言ってくれればなんだってやるのに。私にはやりたいことなんてなかった。だから、苦しかった。人とは違うと思っていたのに、それは悪い意味でだった。


積極的になろうとしても、これをすれば起こられるんじゃないか、こう言ったら機嫌が悪くなるんじゃないか、そんなことばかり考えて、疲れる。生きづらかった。誰か、全てが私のやるべきことを決めてくれ。言ってくれれば、なんでもやるから。

苦しい。普通に生きたい。普通に働いて、普通に遊んで、普通に暮らしたい。そうすることができれば楽なのに。余計なことを考えたくない。

なのに、この自分を嫌いになれずにいる。悪い意味で人とは違うことがわかっているのに、普通になってしまうのが面白くない。こんなにも苦しいのに。

ならば、神様どうか、他のことはなにもできなくてもいいから、一つだけ、才能を下さい。他の人がどうあがいても追い付けないような、てに入れられないような、特別な、私だけの唯一の武器を下さい。それを磨き上げて見せるから。それだけで私は生き抜いて見せるから。

幼いころからスポーツや音楽の才能が発揮されていればよかった。そしたらもっと自信を持っていたのに。あいにくわたしは運動音痴で音感もない。

なにもないわたしは、作るしかない。戦える武器を。いま手持ちにあるもので、どうにか。一体なんだ。無理矢理にでもいうなら、きっとこうやって苦しむことのできる感受性と想像力だ。これが有り余るばっかりに、苦しんできた。ここからは自分を生かすものを作るために使おう。

空に手を

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川のほとりに座って空を見上げる。今日は昼過ぎに急な激しい通り雨に見舞われて仕事がてんやわんやだった。そんな天気だった名残を分厚く残しながらも、円を描くように青い空が顔を覗かせていた。

空を見上げてみようなんて考えて、上を見ることなんてない。歩道から川岸ギリギリまで降りることのできる階段に座るのは、今日初めてのことではない。いつも夕方はここに座って、物思いにふける。今日はなんとなく、たまたま。空が気になった。

日は沈み始めていて、日差しはない。晴れといえば晴れなんだけど、曇りといえば曇りである。文字通り風穴が空いている空がなんだかきれいで眺めていた。ゆっくりと、雲が西へ移動して行くのがわかった。

手を伸ばせば届きそうな気がした。もちろん「気がした」だけである。雲に触れるはずもない。ふと、北海道に行った時のことを思い出した。

高二の時の修学旅行である。地元の空港までのバス移動中は雨だった。これから行く北海道はどんな天気なのだろう。2月だから、やっぱり雪が降ってるのかな。私たちの期待をのせた飛行機は雨の降りしきる滑走路を駆け抜ける。斜めになる機体。飛行機に乗るのは人生二回目だが、なかなかこれが怖いんだ。ジェットコースターが上へ上がっている時と重なる。窓からは、白い壁しか見えなかった。

高度が十分になり、飛行が安定する。外を見た私は驚いた。晴れているのだ。まぶしい。下を覗くと雲が広がっている。というか、雲にまみれている、散らかっている。なんと。どういうことだ。頭が混乱していた。

いま考えると当たり前すぎて笑ってしまう。飛行機が雲の上を飛んでいて、雲から雨が降るのだからその上にいるのなら当然晴れている。それだけ。それだけなのに、不思議な感じがしていた。頭ではわかっていたのに、いざ自分がその状況にいると。出発前の天気が雨だっただけに、そこは別世界だった。

今の、この雲の上にも、きっと別世界が今日も広がっているのだろう。少しでいいからまた行ってみたくて。この空は北海道とも、私が前に住んでいた関西とも、繋がっている。この空は繋がっているんだね、などとチープで青臭いことを言って感傷に浸りたいわけではないが、それは紛れもない事実である。誰か知り合いがいるわけではないけど、また北海道へ行ってみたくなった。

青い風穴はつぶれた。雲は進み続ける。このところ雨が降る日も減り、梅雨明けは近そうだ。
明日の空はどんな表情を見せてくれるだろうか。

花のない桜を見上げて、満開の日を思ったことはあったか

あれから4日が経過した。私の好きな欅坂46の無観客生配信ライブから4日、あの2時間を振り返ろうと思う。


正直、ライブを見ることをためらっていた。チケットを購入したのはライブの2時間前である。それくらいぎりぎりまで迷っていた。


1月に相次いでメンバーの卒業、脱退があり、それ以来正直わたしの欅坂に対する熱は失われつつあった。やはり平手の脱退は痛かったし、大きなショックだった。平手友梨奈個人については、また今度思いを書こうと思う。1つ言えるのは平手=欅坂だったことは間違いなかった。平手坂、などと揶揄されることも多かったが、仕方のないことであった、と私は思う。彼女がいる限り、彼女をセンター以外に置くということは誰もできなかっただろうし、彼女も中心以外には存在できなかったと私は思う。いろいろな意見があるのは承知しているが、彼女がグループメンバーである限り、センターに君臨するか、そうでなければはじめからステージには上がらない。その二つの選択肢しかなかったと思う。


だから、平手が脱退を発表した時、申し訳ないが「終わったな」と思ってしまった。これからもグループは存在し続けるかもしれないが、私たちが望んでいるこれまでの欅坂はもう見れないと思った。そもそもシングルも1年以上出ていないし。これまで欠かさず見ていた「欅って、書けない?」もまったく見なくなってしまった。だから新2期生なるものが加入していたなんて知りもしなかった。それほどまでに興味を失っていた。


それでも今回直前になってチケットを購入したのはなぜか。行ってしまえば「怖いもの見たさ」である。いつも欅坂にはすぐにでも壊れてしまいそうな不安定感があった。それが私を引き付けていた。だから平手なき今、解散、改名、グループ分裂などがネットで囁かれる中、何を見せてくれるのか、気になった。そして「重要なお知らせ」とは一体何なのか。何が起こっても、見届けよう、そう決めた。


お酒と歌舞伎揚げを準備して、パソコンの前で待機する。直前までブログを書いていた。わくわく、ではない。不安と期待とが入り混じる。


overture。背を向け横一列に並ぶ彼女ら。幕が上がる。光指すほうへ歩みだす彼女ら。まだこちらに顔も見せていないのに、チケット買ってよかったなとここでもう確信していたのかもしれない。

「太陽は見上げる人を選ばない」から明るく始まったライブは

「エキセントリック」は土生瑞穂がこの曲は私がセンターでしたよ?と言わんばかりの存在感。三階建ての足場にメンバーがそれぞれ「東京タワーはどこから見える?」職業柄、安全帯かけないと危ないよ、とか思ってしまいます。(笑)


「Student Dance」「Nobody」では観客のいないライブということを生かし、学校のセット、トリックアートが用いられたセットで不思議な世界観を演出してくれた。

ああ、これこそ欅だ。平手がいなくても、失ってはいない。幻想に連れ込んでくる。


前半戦最後の曲は「アンビバレント」。

センターにいるのは、なんと小池美波である。これまで平手以外でアンビバレントのセンターを務めたのは渡邉理佐土生瑞穂鈴本美愉、だったと思う。私の記憶では。ライブでもなかったはずだ。

どちらかといえば「欅らしくない」イメージを彼女に私は持っている。男子が好きそうなルックス、笑顔が似合うキュートな声。らしくないというのは悪い意味ではなくアクセントとしては重要なポジションを担っていると私は思っていた。そんな彼女がセンター。アンビバレントのセンター経験があるメンバーを置いて安定を図らず、別のメンバーを据えて壊しにくるところが実に欅らしい。

クールで激しいダンスを躍りながら、時折見せる不適な笑み。ああ、かっこいい。ごめんなさい。欅らしくないとか言って。欲を言うならあなたがセンターの二人セゾンもこのライブで見たかったです。


換気タイム、インタラクティブタイムを挟んで「大人は信じてくれない」センターは山崎天。そんな歳とは思えないほどの存在感と表現力。

雨に包まれたセットでの「避雷針」。私の、いちばん好きな曲です。やってくれた。このセンターはやっぱり理佐以外に考えられません。圧巻です。うーん、かっこいい。


「風に吹かれても」「ガラスを割れ!」立て続けの表題曲は共にセンター小林。何様目線だよって感じですが、彼女すごく変わりましたね。昔はもっと自信なさげでおどおどしてるようなイメージを抱いていたのに、いまではいちばん頼もしいメンバーとなって欅を引っ張っているように感じます。


そして、mc。

わかっていた。わかっていたんです。ネットで言われていることはおそらく根拠のないただのガセではなく、きっと本当なのだろうと。もはや平手が去った時から、予想はできた。たぶん、そうなってしまうのだろうと。それでもキャプテンの口からその言葉が出たとき、思わず目を瞑ってしまった。ついに、きたか。信じたくはない。でも、受け入れなければならないときが、きてしまった。


これは私の勝手な解釈と妄想である。ラストライブを終え、正式にグループ名が変わった後、彼女らが「欅坂46」の楽曲をパフォーマンスすることは二度とない。二度と。音楽番組ではもちろん、ライブでも、である。1曲たりとも。欅坂46を捨てるわけではない。それは分かっている。誰がその鐘を鳴らすのか?の最後の振り付け、欅ポーズを胸にしまい込むように、これからも彼女らは欅坂とともに歩んでいくだろう。しかしこれまでの路線をたどるようなことはしないのだ。新しく生まれ変わります、と菅井が言っていたように、ベつのグループになるのだ。メンバーは同じで、名前が変わっただけ、とはいかないだろう。独特の世界感を作り、クールでダークで儚くて魅力的な彼女らはいなくなるのだ。


それは悲しいことであるのだが、どこかこれでよかったと思ってしまう自分もいる。短期間で消えてしまうことさえ、欅坂の世界観を表しているようで、これまでの彼女らを際立たせる。タイトルに書いた「二人セゾン」の歌詞のように。消えてしまった後にああ、あのグループは本当にすごかった。ライブとかもっと行っておけばよかった。もう一度だけ、欅坂を見たい、そうやって満開であった時をわたしは思うのであろう。


それでも、木そのものがなくなるわけではないのだ。「前向きなお別れをする」とキャプテンは言った。信じよう。私たちファンにはそれしかできない。どんな名前のグループになるのか、次はどんな色の花を咲かせてくれるのか。見とどけたい。また、別のカラーで私たちを引き付けて離さないグループになることを信じて。


あ、欅共和国2019のDVDは絶対に手に入れないと。



かつて全力だった君へ

今から1ヶ月後の私は、半年後の私は、一年後、10年後の私は、いったいなにをしていてなにを思っているだろうか。そんなことを日々の中でよく考えてしまう。未来の自分は今より心穏やかに、自信を持って過ごせているだろうか。想い描いた未来はそこにあるだろうか。そんな空想の中に潜り込む。未来を変えられるのは今の自分しかいない。そんなことは当の昔に学んだ。頭ではわかっているんだ。それなのに、未来の自分はきっともっとキラキラしていて、輝いているんだろうなと大した努力もしてないのに、期待してしまう。そして今の現状に気付き、落ち込む。

しがないサラリーマンのようなことを言うようだが、中高生のころはよかった。そんな回想をする事が不毛だと知っているけど、思いを馳せてしまう。そこには、あの頃の私には「過去」も「未来」も存在していなかった。あるのは「今」だけ。今日をいきるので精一杯だった。精一杯と言うと苦しみに耐えていたような聞こえかたがするが、そうではない。あの時ああすればよかったとか将来どうしようなんてこと考えたことがなかった。今を、今日一日を、どうやっていくか。今日の授業のこと、部活のこと、夜見るテレビのこと。毎日同じ事を繰り返しだったのに、あの頃の私はひたすら全力だった。その先に何があるかなんて考えたこともなかった。

気がつけばあっという間に高校生になった。あれ?先週くらいに入学したんじゃなかったっけ?時間が流れるのは早いなぁ、と思っているうちに高校は卒業してしまった。

高校生となれば将来について考えなければならない時期である。嫌でも。今思うとなんっっっっにも考えてなかった。本当になにも。田舎の(笑)がつく自称進学校だったから模試はたくさん受けさせられた。当然、その結果を元に大学の合格ライン判定が結果と共に帰ってくる。とりあえずなんか5校くらい書かなきゃいけないから、適当に書いた。なんとなく聞いたことのある頭が良いであろう学校。地元のマンモス校。京都とか、北海道とか、神奈川とか、住んでみたいなと思う地域にある学校。(ちなみに東京の大学は書いたことがない)模試の度に、学校名も、学部もコロコロ変わった。特にいきたい大学もない人が珍しい名前の大学を志望校としてネタ半分で書いたりすることがよくあるらしいが、私のやっていることもそれと大して変わらなかった。

高校1年2年の時点で看護師になるから専門学校へ行くだとか、市の公務員試験を受けるとか、大学へ行って教員になるとか言う話をしているのを聞くと毎回驚かされた。もう、そんなことを考えているんだ。一方私はというとそんな話を聞いて驚きこそするものの、一瞬たりとも焦りの感情が生まれなかった。まあ、なんとなく大学へ行くんだろう。その先はまたどうにかなるだろう。大人になったらなんかそれなりに稼げるカッコいい仕事について、友達もたくさんいて、異性にもモテて、趣味も充実しているだろう。

そう思っていた。別に将来のために何か頑張っているわけではないけど。容姿端麗でもないし、めちゃくちゃ勉強が出来るわけでもないし、音楽やスポーツの才能があるわけでもないけど。どうにかなるよ、きっと。

そう考えていたツケが溜まりに溜まって私にふりかかっている。未来を考えてこなかった自分の未熟さが、あの頃の私の「未来」である今の私を苦しめている。

あの時ああすればよかった、とよく思うけれども過去の自分を恨んだりすることはない。あの頃の私は決して悪くない。未来を知ったら悲しむだろうから、私から君へ、メッセージを残しておこう。

かつて全力だった君へ
君は25歳になった。君は25歳の自分を想像したことがあるだろうか。残念ながらなんとなくぼんやりと描いていた「いい大人」にはなれていない。申し訳ない。本当にごめんなさい。正直に言うと今がどん底である。何にも上手くいきはしない。でも、決して君のせいではない。君は勉強も部活も友達関係も恋愛も家庭環境もぜんぶぜんぶ背負こんでいた君は、間違いなく全力だった。高校生には重すぎるであろう荷物を抱えていた君は、よく頑張っていたよ。でも、だからその分20代で苦しむ時期が来てしまった。仕方ない。誰のせいでもない。未来に絶望が待っているといったら君は悲しむだろうか。では、絶望があるけれどそれを越えた先に輝かしい未来が待っているといったらどうだろうか。まだわからないよ。私はそこまで行っていないから。今の君ができなかったこと考えられなかったこと全てを引き受けて、とことんまで苦しんでやる。そしてもがいてやる。その先の明るい未来を造り出すことを、今君と約束しよう。もう少し待っていて欲しい。そこまで行けたら、また連絡するよ。